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校長室から

499 自慢できること(24.10.24)

 業間や昼休みに校長室にやってきて雑談に興じる子がいます。ある日、急に尋ねられました。「さて、僕の好きなペットボトルのお茶、ベスト5は何でしょう?」と。「伊右衛門」「お~いお茶」「綾鷹」「爽健美茶」など思い浮かぶものを口にしますが、なかなか正解にはたどり着けず降参!すると、「生茶」「烏龍茶」「十六茶」「綾鷹ほうじ茶」…と、商品名を順位とともに教えてくれました。私にはどれも同じなのに、ペットボトル茶の味にこだわりがあるようで、敏感な舌(味覚)を持ち合わせているみたいです。ちなみに私は、血糖値の上昇を抑える「伊右衛門」の緑茶スティックを欠かさず飲んでいます。

 さて、バラエティ番組のインタビューだったでしょうか。大学生風の若者が住んでいる町の自慢をする企画です。ある若者は柏在住で、柏市は北西部の頂点だと言います。その理由が周りの街にあるみたいで、「終わっている町・松戸」「本当に田舎の我孫子」「何もない鎌ケ谷」「子育てしかしていない流山」とコケにした後に、「柏は、茨城県民曰く“ちばの渋谷”!」と言うから笑えます。

 では、平田小の子供たちはどんな市川自慢をするでしょうか。「梨しかない市川」なんて言わせない魅力をみつけてほしいと思います。市川ユネスコ協会が主催する「わたしの町のたからもの」絵画コンクールに、数名の児童が応募しました。残念ながら原画を見ていないのですが、学習等をきっかけに自慢できる宝物を増やしていきたいと思います。2年生の町探検もその一つ。意義性があったり、知れば知るほど好きになったりすることもあるのではないでしょうか。

 自分自身の魅力だって、気づきにくいだけ。だから、誰かがそっと光の下に出してあげることも必要かもしれません。ペットボトル茶の味が判別できることだって、尊敬に値します。

498 食欲の秋(24.10.23)

 最近は、高級ブドウをよく見かけるようになりましたが、先日スーパーで見つけたレッドグローブが安かったのでお買い上げ。種無しブドウに慣れ親しんだ私は、何も考えずに口に放り込みます。そして、思い切り噛んだ瞬間に失敗を悟ります。2つ3つの小さな種が、実に鬱陶しい。慣れというのは恐ろしいもので、種がなく皮を剥かずに食べられるのが当たり前となった現在、皮を剥いたり種を口から出したりすることを面倒くさく感じてしまいます。なんと贅沢になってしまったのでしょう。進化や便利さに、忘れてしまったり鈍ってしまったりする感覚もたくさんあるような気がします。

 ある日ふと、バームクーヘンを丸ごと食べたい!という衝動にかられました。ドイツのお菓子が、急に頭の中に浮かび上がってきたのです。ショートケーキやシフォンケーキ、カステラのようなふわふわ感とは正反対で、生地がぎゅっと結束しあう感じ。そうかといって硬いわけでもなく、しっとりとした舌ざわりと甘すぎない適度な甘さ。紅茶やコーヒーにも合いますし、牛乳でもよし。当然、日本茶でもおいしく食べられます。知らず知らずのうちに、口の中に唾が…。

 そんな気持ちが通じたのでしょうか。ある先生から、コンビニのバームクーヘンをおやつにいただきました。大きさは問題ではなく、ただただ嬉しく、タイミング(勤務時間外です)を見計らってパクリ!しあわせ~。こんなふうに、何の前触れもなく急に、○○が食べたいと思うことが時々あるのは私だけですか?

 庭のいちごポットに季節外れのいちごが、小粒ですが5つ実っています。食べる前にナメクジに先を越されるのが癪なので、現在観察中。それにしても可愛い。

497 ありがとうを口癖に(24.10.22)

 教員の意識調査にある「どのようなときにやりがいを感じるか」の問いに、「自分の仕事が評価されたとき」が6番目に登場します。また、「働きやすい職場はどのような職場ですか」に対しては、「上司から正当な評価がされること」という文字が見られます。

 次の作品は、新聞に掲載された小学2年生の詩です。

  じぶんのシューズあらいと / ぞうきんがけをしました

  シューズをあらったとき / お母さんがうれしそうに

  サイコーっていってくれました /

  お母さんのおてつだい / いつもやりたいです

 お母さんの言葉とそこに添えられる嬉しそうな表情が、この子をやる気にさせる評価であり、スイッチなのだと思います。同じ言葉であっても、トーンなどの違いで受ける印象が異なりますから、笑顔と一緒に感謝や称賛をちゃんと相手に伝えたいと思います。

 先々週、補聴器を点検に出しました。オーバーホールするので1週間かかります。そこで代替器を借り受けて装着してびっくり。進化のスピードは加速度的に伸びているようで、突発音のほか風切り音が低減されています。強い風でもバリバリと割れる音がしないのです。車検や修理の際の代車に、新型車を借りた時の、軽快感・操舵感に驚くのと同じ感覚です。新旧補聴器の違いを実感した先週でしたが、買い換えを検討できる余裕なんかあるはずもなし。

 そういえば、病院の受付で大きな声で聞き返していたおじいさんの耳にも外れかけた補聴器が見えました。何年使っているかは不明ですが、未来の自分を見るようです。そのおじいさんが、看護師さんに大きな声で「ありがとう~」と発した響きは、決してうるさく感じないから不思議です。

496 尾頭付き(24.10.19)

 今日土曜日は、音楽会の参観とひらたっ子まつり。ワクワクします!

 ある日のニュースで、「地域を支えるヤブ医者」というタイトルが映りました。「えっ、どういうこと?」と思いながら見ていると、「ヤブ医者」とは本来名医を表す言葉で、現在言われるような下手な医者のことではないとのこと。兵庫県養父(やぶ)市のHPには、“ある名医が但馬の養父(やぶ)という所にひっそりと隠れるように住んでいて、土地の人に治療を行っていた。死にそうな病人を治すほどの治療を行うことも少なくなかった。その評判は広く各地に伝わり、多くの医者の卵が養父の名医の弟子となった。”とあります。そういう起源があったんだぁ、ガッテン!

 スーパーに並ぶサンマは、今年もスリムな体型です。そんな魚たちを眺めていて、ふと思います。子供たちはこうした魚を見て、名前を言えるのでしょうか。切り身や刺身しか目しない子にとって、鯛や金目はわかってもマグロもカツオもブリも同じに見えるかもしれません。でも魚にも顔があって、種類の見分けはつきます。開きになっても、アジなのかホッケなのかもわかります。

 一般的に、焼き魚として提供されるものの多くは尾頭付きのように思います。鯛やサンマ、目刺しまで…。私の場合、目刺しは頭から全部食べてしまいますが、妻は皿の隅に置いて口をつけません。美味しいのにと思って手を伸ばそうとすると叱られます。ですから、先日食べたサンマには頭がありませんでした。内臓もなかったので売り場に出される前にカットされたものだったのでしょうが、ちょっと寂しい。頭を食べるわけではないのになぜか寂しい。やっぱり、サンマがサンマであることの証が頭(顔)なのではないかなぁと思うのです。「養父」ならず「目黒」のサンマも、当然尾頭付きだったはず。

495 あの気持ちを再び(24.10.18)

 キンモクセイの甘い香りに淡い思い出が浮かびます。一方、味への感動は忘れて久しいように思います。自分で収入を得るようなると、自然と美味しいものを口にする機会が増えます。あれもこれも美味しいと味わっていくうちに、今なら何でもない味に感動したあの時、あの場面が蘇ります。大学生になったころから、新しく知る味がどんどん増えていきました。母の作る味がスタンダードでしたから、「世の中にこんなに美味しいものがあったんだ」というカルチャーショックはたびたびでした。例えば、大学の食堂で食べたサウザンドアイランドが、アルファルファのサラダ(今でいうスプラウト)を絶品に変身させてしまうような錯覚に陥りました。マヨネーズくらいしか知らない舌が、異世界を味わったような感覚。今思えば、たかがそんなことに?と馬鹿々々しくなりますが…。

 ユーチューブで、松山千春が歌う『旅立ち』をたまたま聴くことがあり、カラオケで歌ったことを思い出しました。70年代後半のリリースです。この頃のフォークソングは、自分が歌詞の中の主人公のような錯覚に陥ります。時代背景や生活環境が必ずしも合致しないのに、自分と重ねてしまった若かりし頃。

 70年代のヒット曲のリストから好きな曲を選んでもらうというアンケート結果を見ると、『なごり雪』『神田川』『心の旅』『22才の別れ』などフォークソングが上位を独占です。そのほかにも、不思議と別れや別れの予感を歌った曲がとても多いことに気づきます。自分の思いどおりにはならない心苦しさと傷つけあう姿を切々と詞にしています。逆に、人とのかかわりや思いが、歌の中に息づいているとも言えそうです。アンケート48位に見つけた、ハイファイセットの『フィーリング』も好きだなぁ。

 歌に自分を重ねて感傷に浸るなんてこともなくなったので、子供たちの歌声を楽しみにする今日は、明日に向けたリハーサル兼相互に見合う発表会です。

494 夢を見る(24.10.17)

 社会科の授業が始まる時間、他校からの参観者が数名確認できます。でも、子供は7~8名くらいしか教室に戻っていません。どうしたのか心配しながら、仕方なく授業を始めます。グラフを読み取って考えさせようと思っていたにもかかわらず、その資料が教科書のどこにも載っていないことに気づいて焦ります。手元にも印刷資料を用意していません。ふと教室全体に目をやると、子供たちは授業に関係ないものを振り回してやりたい放題。授業は進まず、板書は未だなし。そんな状況を目の当たりにして、参観者がこそこそと話し始めているのが横目でわかります。居たたまれない気持ちになる中、目が覚めました。担任ではない年月が、担任をしていた時代を大きく上回っているにもかかわらず、未だに準備不足の授業場面の夢を時々見るのです。

 賞状書士の資格をとってみようかと、通信講座に申し込んだのは何十年前のことだったか。筆などは別にして、手本や道具が一式揃い、取り組んで添削を受けたのは2回くらいでした。時間がないわけではありませんが、一人で黙々と続ける根気に欠ける私。ウクレレが続いているのは、独学ではなく、定期的に先生に習いに行っているからにほかなりません。

 似顔絵の通信講座受講を考えた時もありました。特徴をとらえた絵は、何かの役に立つのではないか、描いている時間も楽しいのではないかと思いめぐらせたのですが、申し込みには至りませんでした。好きだったのが、先日亡くなったイラストレーター・山藤章二さんの風刺画。例えば、岸田劉生の『麗子像』を模して描いた大平正芳元首相などの作品はユーモアたっぷり。特徴をとらえた似顔絵が描けたら、全校児童をモデルにできるのにと叶わない夢を見ます。現実は、ワンパターンの自分の似顔絵が限界なのに。

493 あおとあか(24.10.16)

 晴れた日の真っ青な空が、高く見えて秋らしさを感じさせます。「水色」「空色」など、様々な表現がありますが、ざっくりまとめれば「青」系です。でも、「蒼」「碧」「藍」を使う場面も見受けられ、文字から伝わる印象や微妙なグラデーションも人それぞれのはず。

 「あお」は、空の高みの澄み渡る色でもあり、海の深さを表現する色でもあります。朝靄の中に広がっていく始まりの色であり、夜の闇に見つける懐かしい光なのかもしれません。ある人は悲しみあるいは透明感を感じ、またある人は希望を見出します。名前にも使われる文字という点で、「緑」「翠」「碧」とも似かよっている気がして、なんとも不思議です。「これってポエムっぽいぞ」と思って検索すると、『名前の詩』(三戸隆正)に「あお」を発見!

 「あ」かるく楽しみながら 「お」おきな夢を叶える

 秋は、実りの季節でもあります。おいしい果物が出回ります。梨が終わって、同じバラ科のリンゴが店先にたくさん並んでいます。梨といったら、昔は「長十郎」一択だったように思いますが、幸水・豊水・あきづき・かおり・王秋など、次々と新しい品種が登場しています。これはリンゴも一緒。甘み重視で蜜の入った「ふじ」が人気ですが、私の推しは「紅玉」。酸味の利いた昔ながらの味です。その甘酸っぱさからアップルパイや焼きリンゴといったお菓子の材料として活躍する品種です。今は、赤系では「陸奥」「ジョナゴールド」「シナノスイート」「秋映」「サンふじ」、黄系は「シナノゴールド」「王林」などが有名でしょうか。ここ数年、我が家では信州のリンゴ農家から箱で取り寄せて、アラカルトを楽しんでいます。

 「あ」りのままに 「か」ちまけよりも 自分らしい味になれ(by蜂須賀)

492 宝物(24.10.15)

 30歳を過ぎたわが子二人が幼かった頃、ビデオカメラを構えて記録するのが楽しみでした。小さめのVHSテープが溜まってきたので、デッキを2台並べてDVDに編集しました。「老後の楽しみだ」と言って、何時間もかけて納得のいくものにしたはずなのに、しばらくして確認した時には、DVDプレーヤーでもPCにも映りません。何度やっても同じなので、諦めて放置したままでしたが、先日、娘がテープのほうを業者に出して再編集してくれました。幼稚園の発表会や運動会、小学校の入学式などを再び目にすることができました。記憶が刺激されて涙がこぼれます。「子は3歳までに親に恩返ししている」と言われますが、どんなに大きくなっても可愛くて仕方ない宝物です。

 近くの公園や林、先日のアンデルセン公園などの路上にシイやクヌギの実が落ちていることを見かける季節。総じてどんぐりを、木に生っていた時と同じように帽子を被せて並べてあげれば、ちょっとした秋の置物に変身です。たくさん落ちていますから、発芽してもよさそうなものですが、そういう所にはなかなかお目にかかれません。芽を出すためには様々な壁があるようです。例えば、公園など人が立ち入る場所の地面は踏み固められて、水分を吸いづらいとか、そうでない場所でも、落ち葉に邪魔されたり、動物に食べられたりしてします。水が吸えても、周りの木が日光を遮って育たないということも多くあります。発芽まで生きられる割合は、なんと1%にも満たないといいます。

 道端に落ちているどんぐりを、まるで宝物のように大事にポケットにしまう子がいます。でも、忘れられたどんぐりが洗濯機の中を泳ぎ回って怒られた、あるいは怒ったなんて経験もあるはず。

491 何派?(24.10.11)

 納豆をかき回しながら、ふと思います。なぜ納豆のパックって3つなのだろうと。2つや4つの方が使いやすいのに…。我が家は二人家族ですから、パックの1つが必ず余る計算です。いつも同じ納豆を買うわけではないので、2つ置かれた納豆のタレの味や豆の大きさが違う日があることになります。こうした疑問は誰もが感じるようで、スマホで検索すればそれらしい答えにヒットします。

 ①夫婦2人と子供1人の家族が増えたためとする説。②4人家族だと3個入りパックを2つ買うため利益が上がるとする説。③ヨーグルトは4個入りが多い中、納豆を4パックにすると購入価格が上がって売れにくくなるとする説。④冷蔵庫での収納や売り場での場所確保にちょうどよいサイズであるとする説。どれももっともらしい。ちなみに、納豆をご飯にのせて食べる派かそのまま食べる派か、どちらが多いのかと新たな疑問が…。ということで、表題は宗教・宗派を問うたものではありません。

 では、インドア派かアウトドア派かを問われたら、間髪入れずアウトドア派と答える私。家の中でじっとしているより、やることがあれば屋外で作業しているほうが好きなので、外に出たと思ったらいつまでも家の中に戻らないこともしばしばあって呆れられています。

 昭和の子供はみんなアウトドア派かもしれないという決めつけはよくありませんが、私にとって屋外活動に欠かせなかった遊び道具がナイフ。時間と材料さえあれば一人で黙々とナイフを携えて工作三昧でした。当然のことながら、たまにケガもしますから、どうすれば止血できるかなど体験的に学んだ気がします。

 今日は1年生とアンデルセン公園へ出かけます。何回も校外学習の引率はしてきましたが、実はアンデルセン公園は初めて。巡りあわせというかタイミングの問題なのですが…。だから、子供たちと一緒に屋外での活動を楽しんできます。そして三連休…。

490 よくわからない(24.10.10)

 テレビ放送された『踊る大捜査線 ザ・ムービー』を録画して観ました。1998年上映ですから、製作は四半世紀以上前となります。当然、様々なことが今と大違い。車は古いし、パソコンが分厚い。職場でタバコをぷかぷか吸っています。シートベルトを閉めずに車を運転していたり、腹部を刺された青島刑事を室井さんが支えながら外に連れ出したり。大怪我しているのに歩かせちゃダメでしょ。あらっ、重傷者を警察車両に乗せちゃったよ、とツッコミどころ満載でした。でも、みんな若くて懐かしい。

 さて、最近よくわからなくなっていくものがあります。例えば、「今年はなに年だっけ?」と干支を問われて、返答に困ることはないでしょうか。これは年老いたせい?いやいや記憶力の問題ではないはず。年男・年女でもない限り、干支を気にすることがなくなったからかもしれません。自分の干支から数え直して、「どうも辰年のようだ」という結論に落ち着くといった感じです。

 ほかには、俳優の岡田准一さんが、V6だったことは覚えていても、他のメンバーをそらんじることができないなんてことも…。TOKIO、嵐、NEWSもごちゃごちゃで、誰がどこに属していたかわからなくなります。新しめのSnow Manだって8人なのか9人組なのか?辛うじてSMAPだけはわかると思っていたら、結成当時は「スケートボーイズ」というグループ名で12人もいたとか!途中脱退した森且行さんを含めた6人だったことすら知らない世代が多くなりましたが、「へー」といった感じ。妻にでも話そうものなら「だから何?」と素っ気ない返事間違いなし!

 さらに、人顔認知機能!これはシチュエーションと深く結びついています。学校外で私と会った子供の多くが「えっ、何でここに?」という表情をします。時には、校長であることを認識せず(気づかないフリ?)に素通りという場面もあります。大人も同様。自転車に乗って出かける女性を、学校近くで毎朝見かけますが、異なる時間あるいは違う場所ですれ違うと、見たことがあるけれど誰だっけ?顔見知りなのか保護者なのか、自分なりの答えを見つけるまでかなりの時間を要します。

 きっと誰もが同じだと思いたくなる今日は、1999年まで33年間「体育の日」だった日です。

489 手書き文字(24.10.9)

 新番組が続々とはじまる秋ですが、テレビ欄を見ていると、正時(00分)に始まる番組の少なさを今更のように感じます。逆に言うと、番組開始時間が中途半端なものだらけとなります。テレビ欄にNHKから7局が並びますが、横罫が4局つながるのが最大です。正午ぴったりに始まるのだって3局しかありません。こんな風になったのはいつ頃からなのでしょう。特に、夕方のニュース番組をみると、日テレは3:50、テレ朝は4:48、TBSが3:49、フジが3:45と、競い合うようにスタートラインが前に前に動いていったことが窺えます。こうした手法を「フライングスタート」と呼ぶそうです。他局より数分でも早く始めることで、視聴者を引き込もうとするわけです。過去にも似たような開始時間の前倒しはありましたが、視聴率至上主義の最たるもの。ずっと昔は、どの局も基本、正時に番組が開始され、視聴者にとっては時報の役割も兼ねていたといってもよいものでした。推理ドラマのアリバイにも利用されたりして…。

 若い先生方の研修のために、今も現役で子供たちに国語の授業を毎日行う大先輩に来ていただきました。15年ぶりにお会いしましたが、授業への情熱は全く失われていないことに尊敬のまなざし。板書は当然、配付するプリントも手書きにこだわっています。実際、いただいた資料20枚すべてに手書き文字とイラストが並んで、温かみがあります。

 ここ数十年、パソコンやスマホが筆記用具の代わりを果たしてくれますから、手書きの機会は激減しました。右手中指にできたペンだこも小さくなっています。今更ながら、普段どんなときにペンを持つか挙げてみました。①日記、②備忘録へのメモ、③先生の週記録へのコメント、④スケジュール帳への記載、⑤先生への連絡事項を記す付箋紙、⑥検食簿への記録、と数えるほどしかありません。お気に入りの万年筆も、使わないとインクの出が悪くなるので、努めてそんな時に使用しています。

 先日配付した通知表に見つけた「福倉部長」にはニンマリ。手書きだったらこんなこともなく、ちゃんと「副クラブ長」と書けるのに。

488 ジャンパー(24.10.8)

 今朝、本八幡高架脇を歩いているときにどなたかに挨拶をされたのに、気づいたときは時すでに遅し!すいません。

 だいぶ前になりますが、教頭先生がいただき物の缶サイダーに私の似顔絵を描いて、冷蔵庫に入れておいてくれました。ある日それを思い出して、プルタブを開けて飲み始めてふと気づいたこと。口をつけるたびに自分の顔を舐めているではありませんか。これは意図的犯行?

 さて、店の衣料品はすっかり秋冬物になりました。半袖が長袖に、生地が厚手になるだけでなく、色合いも夏と秋冬では大きく違います。「トレーナーを買おうかな」と言うと、「スウェットよ!」とたしなめられます。マネキンが身に着けるスタジャンを眺めていると、「あなたには似合わない!」と釣れないお言葉。懐かしさを感じながらも、今だからこそ上手く着こなせるのではないかという妄想が、その一声で萎れていきます。

 ちなみに、ジャンパーかジャンバーかで悩んで、語尾を適当に濁すのは私だけ?英語表記から正しいのはジャンパーのようですが、紛らわしいのでフランス語のブルゾンを使うほうがよいのかも…。

 ところで、スタジャンとは「スタジアムジャンパー」の略で和製英語。発祥はアメリカのベースボールと言われ、大学生のスポーツチームが着用していたジャケットのことです。特徴は、胸のワッペンでしょうか。日本では1980年台にブームが到来して、アメカジの代表アイテムともいえるものでした。胸ワッペンや背中のデザインが特徴的で格好よかったので、大学生の頃の一張羅のアウターでした。

 これに似た、一文字違いのスカジャン。何の略かと思ってググると、横須賀ジャンパーの略称とあります。横須賀駐留のアメリカ軍人が、自分のジャケットに派手な和風の刺繍を入れてお土産にしたことから定着したらしいのです。

 そういえば、サントリーの缶コーヒー『BOSS』で、ボスジャンが当たるというキャンペーンがあったことを思い出しました。ヤフオクにも商品が多数見られます。今はもうキャンペーンをやっていないだろうと思って検索すると、「役満ボスジャン~オリジナル麻雀牌デザイン~」が自販機にタッチで当たるようです。応募締め切りは来年2月。でも、さすがにこのデザインは奇抜すぎでダンディにはなれません。

487 オーエス(24.10.7)

 朝の天気予報で雨雲の動きをチェックして、「今日は雨が降る心配がないな」とか「折りたたみ傘を忍ばせておく必要があるな」とか、日本地図の中の千葉県を中心に見ながら確認する毎日。すると、千葉県がいつの間にか正統なチーバくんの姿にしか見えなくなってくるから不思議です。それほど浸透している証拠ともいえそうです。

 さて、秋は幼稚園や保育園の運動会シーズンです。というわけで、今年も孫の運動会を見に行ってきました。年中の綱引きで、「オーエス、オーエス」のかけ声を久しぶりに聞きました。ところで、この「オーエス」って何?という疑問。昔、西船橋に劇場があったなぁなんて話をすると、お叱りを受けそうなので真面目に調べました!

 綱引き自体は、平安時代からあって、神事として開催されていたといいます。これが明治時代になって他国との交流が盛んになり、海外のチームとも交流戦が行われました。その頃には、神事というよりスポーツとして楽しんでいたようです。イギリス人の指導の下で発せられたかけ声は「oh hisse(オーイス)」。でも、日本人の耳には「オーエス」と聞こえたというのが始まりなのです。「せーの」でも「よいしょ」でもよいわけで、要は力を込めて引くタイミングを揃えるためのかけ声ですから、独自のものを作り出してもよいわけです。実際、力自慢集まる綱引き競技では、「オーエス」なんて悠長なリズムでは勝てそうもありません。

 5月の運動会でも、5・6年生が「お助け綱引き」をしました。ある学校では、綱を2本使用して十字に組んで、その中心の位置によって勝敗を決する競技方法をとっていました。いろいろなやり方がありますので、高学年ならある程度アイディアを子供たちに委ねてみるのもよいかもしれません。

486 うらら(24.10.4)

 自民党・石破茂氏が新総裁となって新内閣が発足しました。この102代首相、時代劇で「おぬしも悪よのぉ~」とお代官様を演じたらよくお似合いでは?なんて、失礼千万!27日には衆議院解散・総選挙なので、その後すぐに内閣の顔ぶれがまた変わる可能性もあります。とりあえず、教育に携わる者として文部科学大臣の名前くらいは知っておかなければと、新聞の束から数日前の朝刊を引っ張り出しました。「阿部俊子文部科学大臣ね!」と顔と年齢をチェックして思います。「ついこの前までは誰だっけ?」と。盛山正仁氏だそうですが、記憶にございません。

 内閣改造・総選挙などで、文科大臣だけみても目まぐるしく入れ替わります。令和になってすでに6人目ですから、毎年変わっている計算。よって覚えられるはずがないと言い訳。また、防衛費や少子化対策費、災害復興費、社会保障関係費などは取沙汰されますが、教育費が話題に上る場面にとんとお目にかからない気がします。すぐに首を挿(す)げ替えられるとなれば、じっくり腰を落ち着けて政策を強く進める余裕なんてないのかも。

 さて、ある日の新聞に「秋うらら」という言葉を見つけました。「秋麗」と書いてもよいそうですが、これだとビールの銘柄にしか見えません。そういえば、「春うらら」という歌があったことを思い出して調べてみると、ありました、ありました。48年前に田山雅充さんが歌っています。前奏は、まさに昭和歌謡。ちなみに山本リンダさんは、「♪ウララ ウララ ウラウラで~♪」と『狙いうち』を歌っていました。

 この「麗らか」とは、「空が明るく晴れて日がのどかに照っているさま」「心にわだかまりがなく、晴れ晴れと明るいさま」と辞書にはあり、春の季語だそうです。でも、秋の麗らかさは春とだいぶ違う気がします。春の場合、草木の芽吹きや咲き始めた花が暖かな陽光を浴びて、人々の和んだ表情まで想像できます。一方、秋の場合、風はなく、穏やかな赤・黄・オレンジ色の空気に包まれた、心とろける日差しの中にあるイメージを描きます。

 夕方の富士山がきれいに見え始めるのも秋口からです。『夕焼け小焼け』の音楽が流れると家が恋しくなる季節。『先生と子どもたちが詠んだ学校俳句歳時記』の中に、「何ごとも なき日の下校 秋うらら」という作品が掲載されているといいます。これって私たち教職員の願いであり、ホッと肩の力を抜く瞬間をよくとらえています。

 前期終了の今日も平穏な一日でありますように。

485 才と歳(24.10.3)

 HPへのアクセスが、いつの間にか200万件突破しました。驚きと感謝!

 ある日、開店と同時に船橋東武のエスカレーターを上がって奥の街区にある目的の店まで歩きました。わかっていることでも、左右交互に「おはようございます」「いらっしゃいませ」の無機質な声のシャワーが、私一人に延々と注がれる状況はどう対応したらよいものか悩みます。しかもどこも婦人服売り場ときていますから、私は入るわけのない客。だから、ロボットが動いているだけと思って、ひたすら前だけ向いて歩きます。あ~小っ恥ずかしい!

 さて、自分の年齢を書いたとき、専ら「歳」を好んで使います。なんだか格好よく見えるからという単純な理由です。どちらも同じ読みで、年齢を表記する際に使われる漢字ですが、使い分けの必要性はあるのでしょうか。調べると、「歳」は年月や数を表し、「才」は生まれ育った才能や資質などの意味をもつとあります。つまり、年齢を示す漢字は「歳」が正式であるといえそうです。

 「才」は、小学2年生で学ぶ160の漢字の中に見つけることができます。一方、「歳」は中学校で習う常用漢字ですから、画数が少なくて小学校の早い段階で書けるようになる「才」を年齢の表記で使われるようになったのかもしれません。

 「才」を使うことにより、単なる年月のたし算ではなく、その人間が身に着けた知恵や知識の量、つまり人の内面にまで目を向けているようにも思えてきます。生まれながらにして持っている人は「天才」ですし、たくさんの才能を持っている人は「多才」と呼びます。だから10才の子は、365日間で身につける知恵を10個分持っていることになるわけです。こう考えると、「才」もなかなかよいではありませんか。ただ、自分を振り返った時に、60数個分の知恵を本当に身につけているかどうかは、はなはだ疑問です。年齢に応じて身につけた力を発揮できるように、私たち大人も知恵を出し合って日々努めます。

 今日は定時に退勤して、また百貨店の婦人服売り場を横目に目的の場所を目指します。

484 パンダ(24.10.2)

 昔懐かしい防虫剤のにおいが、前を歩く人から漂ってきます。少し涼しくなったので、タンスやクロゼットから出された上着類から発せられているのかもしれません。「ナフタリン」や「ショウノウ(樟脳)」といえば、まさに箪笥の匂いだったのですが、わかる人も少なくなったと思います。

 昔懐かしい響きは、「瀬戸物」というワード。茶碗や湯呑みなどの陶磁器が、家庭で使われますが、これらの割れ物を称して「瀬戸物」と言うのだとばかり思っていた子供時代。全国各地ある焼き物にはそれぞれの名前がついていますが、瀬戸物が愛知県瀬戸市を中心に作られる陶磁器のことだと知ったのはいつでしょうか。

 さて、ジャイアントパンダ2頭が、13年過ごした上野動物園から中国に返還されました。思い出すのは1972年10月に初めてパンダが来日した際のフィーバーぶり。日本と中国の国交が結ばれた記念に、中国から贈られたランランとカンカンを一目見ようと長蛇の列ができました。2時間待って見られるのが30秒ほど。回転寿司のレールよろしく、歩みを止めず人の背中の向こうにいるパンダをチラ見という感じでした。「上野動物園といえばパンダ」というイメージが植え付けられた出来事でした。

 孫の誕生日に絵本はどうかと思って、いろいろと手にしてみました。その中の『パンダ銭湯』、脱衣所で黒い部分を脱いでいく様子がコミカルです。また、アニメ『パンダコパンダ』にも描かれるように、パンダはとても穏やかなイメージです。実際、攻撃性は低いとされますが、やはりクマ科ですから…。

 中国に帰るパンダに大勢のファンが別れを惜しんで集まりました。開園前の暗いうちから集まった人は皆、黒装束。ガラスに自分が映りこまないようにするためといいます。観覧のマナーという人もいるくらいですから驚きです。中には何年もの間、毎日パンダに会い(愛)に通うコアなファンもいるというからさらに驚きです。そういう人は、パンダの顔写真で名前を全部言い当てます。

 実力より話題性やルックスで注目を集めて、集客の要とする「客寄せパンダ」という言葉がありますが、人の興味や関心を惹きつける魅力は、パンダにあやかりたいものです。

483 仮面の下(24.10.1)

 10月になったためか、スタッドレスタイヤのTVCMを見た朝は、どんよりした天気。

 初夢で見るとめでたいものとして、「一富士二鷹三茄子」は有名で、これに「四扇五煙草六座頭」と続きがあることは以前書いた記憶があります。ほかにも、辛抱強くがまんすることを「桃栗三年柿八年」と言いますが、これも「柚子の大馬鹿、十八年」と続き、「子供は風の子」に「大人は火の子」がセットになります。最近知って「へぇ~」と思ったのが、「根掘り葉掘り」。これで完結ではないようで、「ごぼうの根まで」というフレーズがくっつきます。「井の中の蛙大海を知らず」も「されど空の青さを知る」という続きがあったのです。昭和の言葉に「男は度胸、女は愛嬌」があります。現在、こんなことを口にすると、各方面から批判が殺到しそうです。でも、これもここで終わりではなく「坊主はお経」とラップのような韻を踏んでいます。

 さて、車の運転、あるいは運転中につぶやく言葉に、その人の本性が現れると言われます。車に乗るということは、車というシールドに覆われることになります。つまり、密閉された空間、あるいは仮面と言い換えてもよいかもしれません。だから本当の自分をむき出しにできる場所といえます。つまり、ハンドルを握ると人が変わるのではなく、運転にその人の奥底が全部表れているということのようです。あおり運転などはその最たるものかもしれません。

 そういう人は、ストレスをためやすかったり、人のせいにすることが多かったりするといった特徴があるといいます。様々な状況下で冷静な判断力がマヒして、「自分は正しい」「相手が悪い」と主観的な状況判断に陥ることが原因とされます。こうした傾向は車種によっても違うようです。高級車や大型車に乗ることで自分の価値を高めすぎてしまうともいいますから要注意?!

 そんなこと「百も承知、二百も合点」と思いながらも、自分のことを諫める私です。

482 数十年前の理科授業(24.9.30)

 10月を前に、愛知県瀬戸市で来年の干支「巳」にちなんだヘビをかたどった焼き物の出荷が最盛期を迎えたと新聞にありました。11月になると年賀はがきの販売が始まります。それを前に明日から85円に値上げですから、今年は年賀状をどうしようか思案中。同じような思いを抱える人は少なくないはずです。いっそのこと今回で年賀状じまいもアリかと悩む今日この頃。

 キッチンで滅多にしない調理をしていると、目の前をコバエが横切ります。できるだけ生ゴミを置かないようにしていても、どこからともなく発生するコバエが鬱陶しい。コバエホイホイなる商品まであるくらいですから、どこの家でも悩みの種なのだと思います。

 そういえば小学生のころ、理科でコバエ(ショウジョウバエ)を使った実験をしました。集気瓶にバナナを入れておいてショウジョウバエを集めて…。でも何の実験だったかという記憶は定かではありません。高校だと遺伝について学ぶ内容なのでしょうが…。また、ニワトリの卵を孵化させる実験・観察もしました。暗幕を張った部屋で卵に光を当てて血管を透かして見たり成長していく様子を確認したりしました。学校には卵を定温管理できる孵卵機があったものです。そのほかにも、高度ともいえる学習をしていたことを思うと驚きです。

 一方、指導する側になってからの理科の内容も現在とは違います。ジャガイモのでんぷん反応は4年生で扱いましたし、流水のはたらきを校庭で観察したり流水実験場で水を流して確かめたりしました。高学年では、音の伝わり方の実験やものの燃え方で木炭作りまでしました。光の進み方の学習では、プールの下の真っ暗な配管スペースにクラス全員でもぐって、「目に見える」という現象について考えたことも思い出されます。現在とは一味違った、科学・物理に係る思考力や洞察力が問われるものばかりでした。どちらが良い悪いという問題ではなく…。中高と進むにつれて選択教科となりますから、出会わないまますれ違うだけの内容も多くなります。だからこそ、普段の何気ない事象や現象にもハテナを感じて、調べ進める子供たちであってほしいと強く願います。

481 家庭訪問(24.9.27)

 昨日は4年生の落語教室で、生の落語を聞きました。落語は、頭の中で色々と想像することが多いので、ボケ防止にもよいかもと勝手なことを思います。先週、文化庁が発表した「国語に関する世論調査」では、読書機会の減少が浮き彫りになりました。ひと月に本を読まない人が6割以上にのぼり、読書離れが顕著です。でも、読書に浸る時間の楽しさ、想像を巡らす面白さを多くの子供たちにもっと味わってほしいと思います。だから、落語を聞いたり「学校まるごと図書館」の本を読んだりことが、その小さな一歩になればうれしい限り。10月にはラベルを貼り始める予定で、現在進行中です。

 少し前に読んでいた小説に、家庭訪問の場面がありました。今は居所を確認するだけの学区訪問のみという場合が多いのですが、以前は日時を決めて各家庭を徒歩や自転車で回っていました。入学・進級後の4月下旬から5月中旬の1週間程度が割り当てられた大きなイベントだったといえます。子供は親から部屋の片づけを厳命され、親は話す内容やお茶菓子を考えなくてはいけない面倒なものだったはずです。各家庭や子供の状況、保護者の要望を早い段階で把握して、きめ細かくフォローすることが目的でした。子供たちが交代で案内役をしてくれることも多くありました。次の家までの時間配分に余裕を設けていても、話が延びてしまったり家を見つけられないことがあったりして押せ押せになるあの焦りが蘇ってきます。

 あの頃、各家庭で飲み物や食べ物を用意してくれます。飲んだり食べたりしなければ用意してくれているのに申し訳ないですし、食べる家とそうでない家があれば気を悪くさせてしまうかもしれないしと、若かった私は私なりに葛藤があった時代です。保護者も用意するものが被らないように連絡を取り合っていたのかもしれません。

 家に上がることが多かったわけですが、嫌だった家庭もきっとあったはずです。玄関先に腰かけて話すことだってありました。ただ、実際に顔を見て一対一で話すことで、双方の距離を縮めるよい機会であったことは否定できません。元気な声と笑顔、話し方やその内容など、「今なら」と思うことが当時の自分には全然できていなかったことを、今更ながらに反省と後悔、そして恥ずかしさが一気にこみ上げます。

480 虫偏(24.9.26)

 夏休みに、毎年素敵な昆虫標本を作ってくる子がいます。今年は、これまで以上にボリュームアップした作品に驚かされましたし、採集した蝶などの説明は尽きることがありません。それほど好きなものがあるのは、羨ましいことであり強みだと思います。例えば、本・ダンス・音楽・電車・アニメなど好きなものがあって、他者にはオタクに映ったとしても、その分野に精通すればそれは誇ってよいことだと思うのです。

 さて、蝶や蜂、蚊など昆虫類の漢字は「虫偏」が使われます。でも、虫の仲間ではないのに「虫偏」がつく漢字も時々見られます。例えば、はまぐり。貝類なのに「蛤」と書きます。古代中国では、人でも獣でも鳥でも魚でもないことから、虫に分類されていたといいます。では「蛸」はどうでしょう。中国ではアシナガグモに使われる漢字で、日本では使われていませんでした。おそらく8本の足がクモのように見えたからではないかと推測されています。驚くことに、自然現象の「虹」でも「虫偏」が登場します。やはり古代中国でのこととなりますが、虹は龍が作り出すものと考えられていて、ヘビを表す「虫」と(大空を)貫くことを意味する「工」を組み合わせたことに由来します。

 PCなどの文書作成ツールで入力すれば、誤変換にだけ気をつければよい現代、表示される漢字に何の疑問も入り込む余地なく使ってしまいます。必然的に学習能力も低下。でも、よく考えると不思議がたくさんあることに気づきます。例えば「海」が使われる漢字ですが、正しく読めたのか不安になります。「海星」「海月(水母)」「海豚」「海象」「海獺」「海豹」など難解なものも…。

 漢字っておもしろいって言って、漢字辞典を広げる子がいたら最高!偏や旁(つくり)などで、寿司屋の湯飲みみたいな作品が登場するのも粋では?

  《よみ:ヒトデ・クラゲ・イルカ・セイウチ・ラッコ・アザラシ》