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校長室から

488 ジャンパー(24.10.8)

 今朝、本八幡高架脇を歩いているときにどなたかに挨拶をされたのに、気づいたときは時すでに遅し!すいません。

 だいぶ前になりますが、教頭先生がいただき物の缶サイダーに私の似顔絵を描いて、冷蔵庫に入れておいてくれました。ある日それを思い出して、プルタブを開けて飲み始めてふと気づいたこと。口をつけるたびに自分の顔を舐めているではありませんか。これは意図的犯行?

 さて、店の衣料品はすっかり秋冬物になりました。半袖が長袖に、生地が厚手になるだけでなく、色合いも夏と秋冬では大きく違います。「トレーナーを買おうかな」と言うと、「スウェットよ!」とたしなめられます。マネキンが身に着けるスタジャンを眺めていると、「あなたには似合わない!」と釣れないお言葉。懐かしさを感じながらも、今だからこそ上手く着こなせるのではないかという妄想が、その一声で萎れていきます。

 ちなみに、ジャンパーかジャンバーかで悩んで、語尾を適当に濁すのは私だけ?英語表記から正しいのはジャンパーのようですが、紛らわしいのでフランス語のブルゾンを使うほうがよいのかも…。

 ところで、スタジャンとは「スタジアムジャンパー」の略で和製英語。発祥はアメリカのベースボールと言われ、大学生のスポーツチームが着用していたジャケットのことです。特徴は、胸のワッペンでしょうか。日本では1980年台にブームが到来して、アメカジの代表アイテムともいえるものでした。胸ワッペンや背中のデザインが特徴的で格好よかったので、大学生の頃の一張羅のアウターでした。

 これに似た、一文字違いのスカジャン。何の略かと思ってググると、横須賀ジャンパーの略称とあります。横須賀駐留のアメリカ軍人が、自分のジャケットに派手な和風の刺繍を入れてお土産にしたことから定着したらしいのです。

 そういえば、サントリーの缶コーヒー『BOSS』で、ボスジャンが当たるというキャンペーンがあったことを思い出しました。ヤフオクにも商品が多数見られます。今はもうキャンペーンをやっていないだろうと思って検索すると、「役満ボスジャン~オリジナル麻雀牌デザイン~」が自販機にタッチで当たるようです。応募締め切りは来年2月。でも、さすがにこのデザインは奇抜すぎでダンディにはなれません。

487 オーエス(24.10.7)

 朝の天気予報で雨雲の動きをチェックして、「今日は雨が降る心配がないな」とか「折りたたみ傘を忍ばせておく必要があるな」とか、日本地図の中の千葉県を中心に見ながら確認する毎日。すると、千葉県がいつの間にか正統なチーバくんの姿にしか見えなくなってくるから不思議です。それほど浸透している証拠ともいえそうです。

 さて、秋は幼稚園や保育園の運動会シーズンです。というわけで、今年も孫の運動会を見に行ってきました。年中の綱引きで、「オーエス、オーエス」のかけ声を久しぶりに聞きました。ところで、この「オーエス」って何?という疑問。昔、西船橋に劇場があったなぁなんて話をすると、お叱りを受けそうなので真面目に調べました!

 綱引き自体は、平安時代からあって、神事として開催されていたといいます。これが明治時代になって他国との交流が盛んになり、海外のチームとも交流戦が行われました。その頃には、神事というよりスポーツとして楽しんでいたようです。イギリス人の指導の下で発せられたかけ声は「oh hisse(オーイス)」。でも、日本人の耳には「オーエス」と聞こえたというのが始まりなのです。「せーの」でも「よいしょ」でもよいわけで、要は力を込めて引くタイミングを揃えるためのかけ声ですから、独自のものを作り出してもよいわけです。実際、力自慢集まる綱引き競技では、「オーエス」なんて悠長なリズムでは勝てそうもありません。

 5月の運動会でも、5・6年生が「お助け綱引き」をしました。ある学校では、綱を2本使用して十字に組んで、その中心の位置によって勝敗を決する競技方法をとっていました。いろいろなやり方がありますので、高学年ならある程度アイディアを子供たちに委ねてみるのもよいかもしれません。

486 うらら(24.10.4)

 自民党・石破茂氏が新総裁となって新内閣が発足しました。この102代首相、時代劇で「おぬしも悪よのぉ~」とお代官様を演じたらよくお似合いでは?なんて、失礼千万!27日には衆議院解散・総選挙なので、その後すぐに内閣の顔ぶれがまた変わる可能性もあります。とりあえず、教育に携わる者として文部科学大臣の名前くらいは知っておかなければと、新聞の束から数日前の朝刊を引っ張り出しました。「阿部俊子文部科学大臣ね!」と顔と年齢をチェックして思います。「ついこの前までは誰だっけ?」と。盛山正仁氏だそうですが、記憶にございません。

 内閣改造・総選挙などで、文科大臣だけみても目まぐるしく入れ替わります。令和になってすでに6人目ですから、毎年変わっている計算。よって覚えられるはずがないと言い訳。また、防衛費や少子化対策費、災害復興費、社会保障関係費などは取沙汰されますが、教育費が話題に上る場面にとんとお目にかからない気がします。すぐに首を挿(す)げ替えられるとなれば、じっくり腰を落ち着けて政策を強く進める余裕なんてないのかも。

 さて、ある日の新聞に「秋うらら」という言葉を見つけました。「秋麗」と書いてもよいそうですが、これだとビールの銘柄にしか見えません。そういえば、「春うらら」という歌があったことを思い出して調べてみると、ありました、ありました。48年前に田山雅充さんが歌っています。前奏は、まさに昭和歌謡。ちなみに山本リンダさんは、「♪ウララ ウララ ウラウラで~♪」と『狙いうち』を歌っていました。

 この「麗らか」とは、「空が明るく晴れて日がのどかに照っているさま」「心にわだかまりがなく、晴れ晴れと明るいさま」と辞書にはあり、春の季語だそうです。でも、秋の麗らかさは春とだいぶ違う気がします。春の場合、草木の芽吹きや咲き始めた花が暖かな陽光を浴びて、人々の和んだ表情まで想像できます。一方、秋の場合、風はなく、穏やかな赤・黄・オレンジ色の空気に包まれた、心とろける日差しの中にあるイメージを描きます。

 夕方の富士山がきれいに見え始めるのも秋口からです。『夕焼け小焼け』の音楽が流れると家が恋しくなる季節。『先生と子どもたちが詠んだ学校俳句歳時記』の中に、「何ごとも なき日の下校 秋うらら」という作品が掲載されているといいます。これって私たち教職員の願いであり、ホッと肩の力を抜く瞬間をよくとらえています。

 前期終了の今日も平穏な一日でありますように。

485 才と歳(24.10.3)

 HPへのアクセスが、いつの間にか200万件突破しました。驚きと感謝!

 ある日、開店と同時に船橋東武のエスカレーターを上がって奥の街区にある目的の店まで歩きました。わかっていることでも、左右交互に「おはようございます」「いらっしゃいませ」の無機質な声のシャワーが、私一人に延々と注がれる状況はどう対応したらよいものか悩みます。しかもどこも婦人服売り場ときていますから、私は入るわけのない客。だから、ロボットが動いているだけと思って、ひたすら前だけ向いて歩きます。あ~小っ恥ずかしい!

 さて、自分の年齢を書いたとき、専ら「歳」を好んで使います。なんだか格好よく見えるからという単純な理由です。どちらも同じ読みで、年齢を表記する際に使われる漢字ですが、使い分けの必要性はあるのでしょうか。調べると、「歳」は年月や数を表し、「才」は生まれ育った才能や資質などの意味をもつとあります。つまり、年齢を示す漢字は「歳」が正式であるといえそうです。

 「才」は、小学2年生で学ぶ160の漢字の中に見つけることができます。一方、「歳」は中学校で習う常用漢字ですから、画数が少なくて小学校の早い段階で書けるようになる「才」を年齢の表記で使われるようになったのかもしれません。

 「才」を使うことにより、単なる年月のたし算ではなく、その人間が身に着けた知恵や知識の量、つまり人の内面にまで目を向けているようにも思えてきます。生まれながらにして持っている人は「天才」ですし、たくさんの才能を持っている人は「多才」と呼びます。だから10才の子は、365日間で身につける知恵を10個分持っていることになるわけです。こう考えると、「才」もなかなかよいではありませんか。ただ、自分を振り返った時に、60数個分の知恵を本当に身につけているかどうかは、はなはだ疑問です。年齢に応じて身につけた力を発揮できるように、私たち大人も知恵を出し合って日々努めます。

 今日は定時に退勤して、また百貨店の婦人服売り場を横目に目的の場所を目指します。

484 パンダ(24.10.2)

 昔懐かしい防虫剤のにおいが、前を歩く人から漂ってきます。少し涼しくなったので、タンスやクロゼットから出された上着類から発せられているのかもしれません。「ナフタリン」や「ショウノウ(樟脳)」といえば、まさに箪笥の匂いだったのですが、わかる人も少なくなったと思います。

 昔懐かしい響きは、「瀬戸物」というワード。茶碗や湯呑みなどの陶磁器が、家庭で使われますが、これらの割れ物を称して「瀬戸物」と言うのだとばかり思っていた子供時代。全国各地ある焼き物にはそれぞれの名前がついていますが、瀬戸物が愛知県瀬戸市を中心に作られる陶磁器のことだと知ったのはいつでしょうか。

 さて、ジャイアントパンダ2頭が、13年過ごした上野動物園から中国に返還されました。思い出すのは1972年10月に初めてパンダが来日した際のフィーバーぶり。日本と中国の国交が結ばれた記念に、中国から贈られたランランとカンカンを一目見ようと長蛇の列ができました。2時間待って見られるのが30秒ほど。回転寿司のレールよろしく、歩みを止めず人の背中の向こうにいるパンダをチラ見という感じでした。「上野動物園といえばパンダ」というイメージが植え付けられた出来事でした。

 孫の誕生日に絵本はどうかと思って、いろいろと手にしてみました。その中の『パンダ銭湯』、脱衣所で黒い部分を脱いでいく様子がコミカルです。また、アニメ『パンダコパンダ』にも描かれるように、パンダはとても穏やかなイメージです。実際、攻撃性は低いとされますが、やはりクマ科ですから…。

 中国に帰るパンダに大勢のファンが別れを惜しんで集まりました。開園前の暗いうちから集まった人は皆、黒装束。ガラスに自分が映りこまないようにするためといいます。観覧のマナーという人もいるくらいですから驚きです。中には何年もの間、毎日パンダに会い(愛)に通うコアなファンもいるというからさらに驚きです。そういう人は、パンダの顔写真で名前を全部言い当てます。

 実力より話題性やルックスで注目を集めて、集客の要とする「客寄せパンダ」という言葉がありますが、人の興味や関心を惹きつける魅力は、パンダにあやかりたいものです。

483 仮面の下(24.10.1)

 10月になったためか、スタッドレスタイヤのTVCMを見た朝は、どんよりした天気。

 初夢で見るとめでたいものとして、「一富士二鷹三茄子」は有名で、これに「四扇五煙草六座頭」と続きがあることは以前書いた記憶があります。ほかにも、辛抱強くがまんすることを「桃栗三年柿八年」と言いますが、これも「柚子の大馬鹿、十八年」と続き、「子供は風の子」に「大人は火の子」がセットになります。最近知って「へぇ~」と思ったのが、「根掘り葉掘り」。これで完結ではないようで、「ごぼうの根まで」というフレーズがくっつきます。「井の中の蛙大海を知らず」も「されど空の青さを知る」という続きがあったのです。昭和の言葉に「男は度胸、女は愛嬌」があります。現在、こんなことを口にすると、各方面から批判が殺到しそうです。でも、これもここで終わりではなく「坊主はお経」とラップのような韻を踏んでいます。

 さて、車の運転、あるいは運転中につぶやく言葉に、その人の本性が現れると言われます。車に乗るということは、車というシールドに覆われることになります。つまり、密閉された空間、あるいは仮面と言い換えてもよいかもしれません。だから本当の自分をむき出しにできる場所といえます。つまり、ハンドルを握ると人が変わるのではなく、運転にその人の奥底が全部表れているということのようです。あおり運転などはその最たるものかもしれません。

 そういう人は、ストレスをためやすかったり、人のせいにすることが多かったりするといった特徴があるといいます。様々な状況下で冷静な判断力がマヒして、「自分は正しい」「相手が悪い」と主観的な状況判断に陥ることが原因とされます。こうした傾向は車種によっても違うようです。高級車や大型車に乗ることで自分の価値を高めすぎてしまうともいいますから要注意?!

 そんなこと「百も承知、二百も合点」と思いながらも、自分のことを諫める私です。

482 数十年前の理科授業(24.9.30)

 10月を前に、愛知県瀬戸市で来年の干支「巳」にちなんだヘビをかたどった焼き物の出荷が最盛期を迎えたと新聞にありました。11月になると年賀はがきの販売が始まります。それを前に明日から85円に値上げですから、今年は年賀状をどうしようか思案中。同じような思いを抱える人は少なくないはずです。いっそのこと今回で年賀状じまいもアリかと悩む今日この頃。

 キッチンで滅多にしない調理をしていると、目の前をコバエが横切ります。できるだけ生ゴミを置かないようにしていても、どこからともなく発生するコバエが鬱陶しい。コバエホイホイなる商品まであるくらいですから、どこの家でも悩みの種なのだと思います。

 そういえば小学生のころ、理科でコバエ(ショウジョウバエ)を使った実験をしました。集気瓶にバナナを入れておいてショウジョウバエを集めて…。でも何の実験だったかという記憶は定かではありません。高校だと遺伝について学ぶ内容なのでしょうが…。また、ニワトリの卵を孵化させる実験・観察もしました。暗幕を張った部屋で卵に光を当てて血管を透かして見たり成長していく様子を確認したりしました。学校には卵を定温管理できる孵卵機があったものです。そのほかにも、高度ともいえる学習をしていたことを思うと驚きです。

 一方、指導する側になってからの理科の内容も現在とは違います。ジャガイモのでんぷん反応は4年生で扱いましたし、流水のはたらきを校庭で観察したり流水実験場で水を流して確かめたりしました。高学年では、音の伝わり方の実験やものの燃え方で木炭作りまでしました。光の進み方の学習では、プールの下の真っ暗な配管スペースにクラス全員でもぐって、「目に見える」という現象について考えたことも思い出されます。現在とは一味違った、科学・物理に係る思考力や洞察力が問われるものばかりでした。どちらが良い悪いという問題ではなく…。中高と進むにつれて選択教科となりますから、出会わないまますれ違うだけの内容も多くなります。だからこそ、普段の何気ない事象や現象にもハテナを感じて、調べ進める子供たちであってほしいと強く願います。

481 家庭訪問(24.9.27)

 昨日は4年生の落語教室で、生の落語を聞きました。落語は、頭の中で色々と想像することが多いので、ボケ防止にもよいかもと勝手なことを思います。先週、文化庁が発表した「国語に関する世論調査」では、読書機会の減少が浮き彫りになりました。ひと月に本を読まない人が6割以上にのぼり、読書離れが顕著です。でも、読書に浸る時間の楽しさ、想像を巡らす面白さを多くの子供たちにもっと味わってほしいと思います。だから、落語を聞いたり「学校まるごと図書館」の本を読んだりことが、その小さな一歩になればうれしい限り。10月にはラベルを貼り始める予定で、現在進行中です。

 少し前に読んでいた小説に、家庭訪問の場面がありました。今は居所を確認するだけの学区訪問のみという場合が多いのですが、以前は日時を決めて各家庭を徒歩や自転車で回っていました。入学・進級後の4月下旬から5月中旬の1週間程度が割り当てられた大きなイベントだったといえます。子供は親から部屋の片づけを厳命され、親は話す内容やお茶菓子を考えなくてはいけない面倒なものだったはずです。各家庭や子供の状況、保護者の要望を早い段階で把握して、きめ細かくフォローすることが目的でした。子供たちが交代で案内役をしてくれることも多くありました。次の家までの時間配分に余裕を設けていても、話が延びてしまったり家を見つけられないことがあったりして押せ押せになるあの焦りが蘇ってきます。

 あの頃、各家庭で飲み物や食べ物を用意してくれます。飲んだり食べたりしなければ用意してくれているのに申し訳ないですし、食べる家とそうでない家があれば気を悪くさせてしまうかもしれないしと、若かった私は私なりに葛藤があった時代です。保護者も用意するものが被らないように連絡を取り合っていたのかもしれません。

 家に上がることが多かったわけですが、嫌だった家庭もきっとあったはずです。玄関先に腰かけて話すことだってありました。ただ、実際に顔を見て一対一で話すことで、双方の距離を縮めるよい機会であったことは否定できません。元気な声と笑顔、話し方やその内容など、「今なら」と思うことが当時の自分には全然できていなかったことを、今更ながらに反省と後悔、そして恥ずかしさが一気にこみ上げます。

480 虫偏(24.9.26)

 夏休みに、毎年素敵な昆虫標本を作ってくる子がいます。今年は、これまで以上にボリュームアップした作品に驚かされましたし、採集した蝶などの説明は尽きることがありません。それほど好きなものがあるのは、羨ましいことであり強みだと思います。例えば、本・ダンス・音楽・電車・アニメなど好きなものがあって、他者にはオタクに映ったとしても、その分野に精通すればそれは誇ってよいことだと思うのです。

 さて、蝶や蜂、蚊など昆虫類の漢字は「虫偏」が使われます。でも、虫の仲間ではないのに「虫偏」がつく漢字も時々見られます。例えば、はまぐり。貝類なのに「蛤」と書きます。古代中国では、人でも獣でも鳥でも魚でもないことから、虫に分類されていたといいます。では「蛸」はどうでしょう。中国ではアシナガグモに使われる漢字で、日本では使われていませんでした。おそらく8本の足がクモのように見えたからではないかと推測されています。驚くことに、自然現象の「虹」でも「虫偏」が登場します。やはり古代中国でのこととなりますが、虹は龍が作り出すものと考えられていて、ヘビを表す「虫」と(大空を)貫くことを意味する「工」を組み合わせたことに由来します。

 PCなどの文書作成ツールで入力すれば、誤変換にだけ気をつければよい現代、表示される漢字に何の疑問も入り込む余地なく使ってしまいます。必然的に学習能力も低下。でも、よく考えると不思議がたくさんあることに気づきます。例えば「海」が使われる漢字ですが、正しく読めたのか不安になります。「海星」「海月(水母)」「海豚」「海象」「海獺」「海豹」など難解なものも…。

 漢字っておもしろいって言って、漢字辞典を広げる子がいたら最高!偏や旁(つくり)などで、寿司屋の湯飲みみたいな作品が登場するのも粋では?

  《よみ:ヒトデ・クラゲ・イルカ・セイウチ・ラッコ・アザラシ》

479 適応できる?(24.9.25)

 先週末頃から涼しい朝、そして心地よい秋風を感じるようになりました。昨日は迷って半袖にしましたが、今日は迷うことなく長袖シャツ。ポケットに忍ばせる汗拭きも、タオルからハンカチに切り替わっています。「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、9月中旬まで真夏日が続いてうんざりしていたのが嘘のようです。この暑さは6月から3か月以上続きましたから、最高気温35℃と聞いても驚かなくなってしまったことに逆にビックリ。

 年を経るごとに暑い日が多くなっている現在ですが、不思議なもので秋の彼岸にはちゃんと涼しさが戻ってくるのです。辻褄が合うようになっているみたいです。事もあろうに、妻は歳のとり方と重ね合わせて言うからびっくりです。曰く、季節の移ろいと同じように、50代から白髪が目立つ人も60代後半から急に白髪が増え出した人も、70歳にもなれば同じような割合でちゃんと白くなっているのだと。徐々に白いものが増えている現実をそんなふうに表現するかぁと達観した見方に感服です。

 先日、近所のダイソーで塗料と刷毛をかごに入れてレジへ向かいました。いつの間にやらレジがセルフに変わっていました。バーコードを読ませるところがわからずもたもたしていると、店員が近づいてやさしく教えてくれました。スーパーもドラッグストアもセルフレジ化が急速に進んでいます。人件費削減、合理化・効率化の一つなのでしょうが、慣れない身には買い物自体が億劫になります。

 先日は、百貨店の駐車場自動精算機の前で困っているお年寄りがいました。手伝っている間に、後ろに列ができていくのは大きなプレッシャーです。ガソリンスタンドもセルフが多くを占めるようになったためか、ブレーキランプなどの灯火類が切れたまま走っている車が増えてはいないでしょうか。タイヤの空気圧だっていつ点検したか覚えていないなんて言う人も…。以前ならサービスでやってくれていたことがなくなった弊害は少なくないのかもしれません。

 便利ではあっても、簡単には適応できない人がいたり、逆に課題が生まれたりすることも忘れないでいたいものです。