文字
背景
行間
校長室から
144 共通テストの日に(1/18)
ずっと感じてきた素朴な疑問。
それは、“どうして「理科」だけ「科」が標準装備なのだろう?”というもの。一般的に学校の教科に関しては、「科」を省いても成立します。国語・算数・社会・外国語・体育など。でも、「理科」だけは「理」だけではわかりません。必ず「科」とセット表記です。学習指導要領の教科名も、理科だけ「科」をつけています。いったいどうしてなのでしょう?
『Yahoo知恵袋』の回答には、“「理科」は、物理・化学・生物・地学をまとめて縮小した「造語」だそうです。明治19(1886)年に制定された小学校令を作成する際に物理・化学・生物・地学の自然科学関係4教科をまとめて縮小した言葉として創られたのだそうです。よって、国語・算数などと同じように理科で一つの言葉なのです。”(ほぼ原文のまま)とあります。
また、『教えて!goo』にはこれを補足するように、“実際、昭和初期の制度では、「理数科理科」「理数科数学」という言い方がありました。”(原文のまま)と書かれています。ただ一部には、「理科科」とする学校もあるようです。
さて、先日「大学入学共通テスト」が行われました。千葉県内では29会場で2万4千人余りが頑張ったようです。昨年度から「大学入試センター試験」から名称を変更して実施。遡ると、1990年度に始まったセンター試験以前は、1978年度から11年間続いた「大学共通一次試験」でした。私が受けたのも共通一次の初期。そして、理科4分野で選択したのは、生物と地学!物理は苦手でした。
共通テストが行われる当日、私の頭を悩ませたのが新聞にあった「漢字熟語クイズ」。虫食い状態の3~5文字熟語を完成させていきます。簡単そうに見えてもフル回転の脳みそです。例えば「○○高島○」という問題だと、何が思い浮かぶでしょう。懸命に考える私の脇で「大宮高島屋」とささやく輩。正解は「文金高島田」だったのです。また、完成すると「金茶金十郎」となる言葉があります。知らない人物ですし、本当にあるのかと思って調べると、“芸者屋などで大金を浪費することから転じて、「馬鹿者・たわけ者」を指す”とのこと。人物ではありませんでした。そういえば熟語問題だったわけです。もう試験とは縁遠くなりましたが、頭の体操は欠かさないようにしないと危ない!
最近、朝電車に乗ると、受験生と思しき中学生の姿が目立つようになりました。中学受験をする児童もいます。体調を整えて悔いのないように臨んでもらいたいなぁ。プライスレスの応援しかできませんが…。
143 セーターになりたかった毛糸玉(1/17)
セーターになりたいと憧れる10個の赤い毛糸玉たちが、おばあさんに買われていきます。でも、孫に編んだセーターは9個で完成。1個だけ残った毛糸玉は、赤い手袋となって孫にプレゼントされます。セーターにはなれなかったけれど手袋として幸せな日々をおくっていたのに、孫は手袋をどこかに置き忘れてしまうのです。犬に咥えられ、ネズミにボロボロにされるなど紆余曲折を経て、最後は猫のセーターになって幸せな毛糸玉を描いています。この本は、シャイだった?私が最初に妻にしたプレゼント。絵と話が素敵で自分好みだけど、ちゃんと読んでもらえるか自信がなくて…。
さて、先週島根県の小学校敷地内で、昼休みに鬼ごっこをしていた児童2人が車に轢かれるという事故が発生しました。敷地内のアスファルト舗装部分が、小学校近くの民家と国道の抜け道となっていたといいます。信じられないことです。ただ、普段当たり前になってしまっている中に落とし穴があるものです。
学校の門の前まで車で送ってくる場面を見かけますが、道路の反対側で降りて横断歩道を渡らずに横切っている子もいます。以前もかなり危ない時があって注意喚起をしましたが残念です。親の意識・指導の積み重ね、普段の行動はととても大事です。子供はよく見ていますし聞いています。
子供たちも、毛糸玉以上に「なりたい自分」「夢」があるはずです。自分の内なるものや外的環境が障壁となって、なかなかうまくいかないことに気づかされる経験をするかもしれません。ただ、不注意などによる事故で夢がついえることのないようにしてほしいのです。
142 甘味(1/16)
浅草へ初参りに行ったのが1週間前。菩提寺があるので事務手続きを兼ねて浅草寺などを詣でました。浅草へ行くと必ずと言ってよいほど足を運ぶのが、甘味処「梅園」です。あんみつ・みつ豆・豆かんなど持ち帰り品がいろいろありますが、毎回迷わず「あんみつ」一択。夕飯の後でも、すんなりおなかは受け付けてくれて、至福の喜び~。舟和の芋ようかんも捨てがたいですが…。
みつまめは、茹でた赤エンドウマメとさいの目に切った寒天、求肥、白玉、ミカンやモモなどのフルーツなどを器に盛って黒蜜をかけたものを指し、餡をトッピングすればあんみつ!みつ豆であれ豆かんであれ、主役は赤エンドウマメと寒天。創業以来の製法で手間暇をかけて作られた寒天や豆は、しっかりした歯ごたえや味が自慢といえます。また、黒蜜や餡などとのバランスが最適だからこそ美味しいのだと思います。
これって学級や会社組織などと同じかもしれません。どんなに美味しくても寒天だけとか豆だけでは成立しません。それを引き立てる役割があってこそ。場面によっては役割を変えながら生活をしているのだと思います。互いのよさや足りない部分を理解し、互いに尊重しあってこそ集団が伸びて美味しくなるのだと思うのです。
11日の鏡開きには、給食で白玉小豆が出ました。小豆を大釜で煮るところから始めます。いくつもの回転窯で時間をかけて丁寧に煮込まれた小豆は濃厚で、適度な甘さから笑顔がほころびます。小中学校合わせて千食以上ですから、作業の大変さは想像以上でしょう。家では焼き餅でお汁粉を食べたい!
141 成人(1/13)
校長室にやってきた男児が、椅子の後ろに回って「今日は4日目?」と尋ねます。見事な観察力です。私が頭を剃ってから何日目かを見ただけで当てたのです。
週末恒例の道の駅に行くと、青菜が旬であることがよくわかります。「見事」といえば、小松菜やホウレン草に並んで置かれているターサイのロゼットも見事です。段ボール札には「炒め物に最適」と書かれていますが、「被り物に最適」の間違いではないかと思うほどの大きさ・形です。
さて、先の日曜日や月曜日に晴れ着や慣れないスーツ姿の若者をあちこちで見かけました。40年以上前の自分はどんなだったか思い出そうにも浮かんできません。ただ会場に来たゲストが高橋真梨子さんで、いい声で歌う姿を見ていたという記憶だけは…。
そして、市行政で勤務していた十数年前の成人式は、防犯担当でした。穏やかに進行できるように客席に目を光らせ、いつでも動けるように身構えていました。ある年は、卒業させた教え子が成人を迎え、挨拶しに来てくれたこともありました。 市川市のHPには、“「成人」とは、心身ともに十分に成長した人のことを指します。一人前の「大人」として社会的にも認知されます。過去に遡ると、奈良時代には既に、成人になったことを示す通過儀礼として「元服の儀」が行われていました。今で言うと小学校高学年から高校生の間の頃で、年齢は一定ではなく、その時代によって変化していたようです。”とあります。成人の代表的な権利にあたる選挙権などについては、既に満18歳以上に引き下げられていますから、「成人」とは何か?「成人」になると何が変わるのか?「成人」に向けて自分自身がどうあるべきなのかを、今のうちから考えてみるのもよいかもしれません。
今日は5年生が帰ってくる日です。活動の様子は、HPでご覧いただけたでしょうか?ホテルでゆったりした時間を共有することもできたようです。でも、子供たちの心の内側は写真では伝わり切りません。直接聞いてもらったり、個人新聞や作文などになって廊下などに掲示された作品を読んでもらったり…。
140 ぬいぐるみ(1/12)
我が家には、大小を問わずぬいぐるみがやたらたくさん。数えてみると、寝室に3つ、妻の部屋に9つ、私の部屋に娘が残していったものを含めて20個、階段に2体、1階に9つ、車の中に8つ。校長室にも3つありますが、ほとんどに名前がついています。わが子は、同じように見えるぬいぐるみも判別してちゃんと名前で呼んでいましたし、大事にしすぎてぺちゃんこになっていたり表面が毛羽立っていたりします。家族旅行に行くときもリュックに忍ばせて連れていたくらいです。
学校ではぬいぐるみや人形を大事にしていることを話したりそぶりを見せたりしない子も、家に帰ると呼びかけたり抱きかかえたりしているのかもしれません。薄汚れて、親にしてみれば「処分対象」であっても子供には大事な家族の一員かもしれません。
さて、私が補聴器を購入する決め手になった一つに、その専門店の代表が補聴器の愛用者であったことが挙げられます。会話の中で、今何について話をしているのかわからなくなることがあります。聞き取れた言葉をつなぎ合わせて把握するのですが、会話の主導権を握ってしまえばよいと思い、聞くことよりも自分から話してしまって不安を解消するような場面があります。こんなことに、代表が「そうなんですよね」と言って聞こえないつらさに共感してくれたのです。自分が難聴だからこそ、利用する人の困り感に寄り添って軽減したいと直接話を聞くことができ、ここなら安心だと考えたのです。
年末近くなったころ、「全国の公立小中学校の通常学級に、発達障害の可能性がある児童・生徒が8.8%いる」という文科省の調査結果が新聞に掲載されていました。こうした子供たちにとっても、わかってもらえたり、「そうかぁ」と言って頷いてくれたりする人が大事です。眼鏡をかけたり補聴器をしたりすると同じような支援が必要です。この支援はモノや機械ではなく周りの「ひと」なのだと思うのです。
もしかすると、何も言わないぬいぐるみに自分のつらさや愚痴を吐露している子がいるのかもしれませんし、ホワイトスクールにぬいぐるみ同行なんて子だっていないとは限りません。