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校長室から
481 家庭訪問(24.9.27)
昨日は4年生の落語教室で、生の落語を聞きました。落語は、頭の中で色々と想像することが多いので、ボケ防止にもよいかもと勝手なことを思います。先週、文化庁が発表した「国語に関する世論調査」では、読書機会の減少が浮き彫りになりました。ひと月に本を読まない人が6割以上にのぼり、読書離れが顕著です。でも、読書に浸る時間の楽しさ、想像を巡らす面白さを多くの子供たちにもっと味わってほしいと思います。だから、落語を聞いたり「学校まるごと図書館」の本を読んだりことが、その小さな一歩になればうれしい限り。10月にはラベルを貼り始める予定で、現在進行中です。
少し前に読んでいた小説に、家庭訪問の場面がありました。今は居所を確認するだけの学区訪問のみという場合が多いのですが、以前は日時を決めて各家庭を徒歩や自転車で回っていました。入学・進級後の4月下旬から5月中旬の1週間程度が割り当てられた大きなイベントだったといえます。子供は親から部屋の片づけを厳命され、親は話す内容やお茶菓子を考えなくてはいけない面倒なものだったはずです。各家庭や子供の状況、保護者の要望を早い段階で把握して、きめ細かくフォローすることが目的でした。子供たちが交代で案内役をしてくれることも多くありました。次の家までの時間配分に余裕を設けていても、話が延びてしまったり家を見つけられないことがあったりして押せ押せになるあの焦りが蘇ってきます。
あの頃、各家庭で飲み物や食べ物を用意してくれます。飲んだり食べたりしなければ用意してくれているのに申し訳ないですし、食べる家とそうでない家があれば気を悪くさせてしまうかもしれないしと、若かった私は私なりに葛藤があった時代です。保護者も用意するものが被らないように連絡を取り合っていたのかもしれません。
家に上がることが多かったわけですが、嫌だった家庭もきっとあったはずです。玄関先に腰かけて話すことだってありました。ただ、実際に顔を見て一対一で話すことで、双方の距離を縮めるよい機会であったことは否定できません。元気な声と笑顔、話し方やその内容など、「今なら」と思うことが当時の自分には全然できていなかったことを、今更ながらに反省と後悔、そして恥ずかしさが一気にこみ上げます。